数学のテストで『電卓使っちゃいけないの、なんでですか?(c)jkondo』と教師に食ってかかった時点で、文系・理系の適性が決まってしまっている!?
小学生の頃「シャーペン禁止」「電卓禁止」の試験になぜ!? と思った人は多いのではないだろうか。思えばここが文系人間と理系人間の分かれ道だったのかもしれない。POLAR BEAR BLOGによると、日経新聞で「宿題の答えをググって出す小学生についての批判」が書かれた事を取り上げ、『ググって手にいれられないような内容を教育すべきではないか。ググって手に入る情報はGoogleで探せばよろし』との意見を表明している。404 Blog not foundでは...本意が把握し辛いがおおむね「同じものを手にいれるにしても、ググって出した人と自分で導き出した人では得られる対価が異なる。いつでもググれるのだから、若いうちはググらず手にいれられる経験を積むべきだ」と述べている。
答えを出してくれる便利なツールがある世界で、それを排除する形で教育を進めるのはあまり意味がないと思います。基礎的な情報はググって手に入れられるという前提で(それをできるだけでも凄いことだと思いますが)、そこから何かを生み出すことを育むような教育に移っても良いのではないか -- そんな風に感じています
「3番目の完全数をググる」というのは、橋のたもとまでセグウェイで行って、滝壺まで行った気になるのと同じことではないのか。いやいや、上の写真を見ただけで、そういう気になることではないのだろうか。
いやはやまったく、お二人とも色が出ていて大変に面白い。どちらの考え方がいい、悪いというつもりは毛頭ない。ただ、それぞれ文系人間の考え方と、理系人間の考え方なのだろうなぁと感じた次第*1。理系の大学を卒業したとか、文系の職種についているとか、そんなことを言っているのではない。
複雑な計算を電卓を使わず解く経験を体得しなければ、計算機のアルゴリズムをもっとよくしてやろう、というアプローチはできないだろう。これが理系的思考であり、こういった考え方,アプローチのしかたをする人がスパコンなどを作る。逆に、電卓なんて便利な機械があるんだから、電卓で解いてしまえばもっとほかの事を考える時間があるじゃない、というのが文系的思考であり、計算機のアルゴリズムを改良することはできないが、計算機を活用して会社の人件費を削減する、なんてことを思いつくだろう。ツールを使わず体験することで狭く深い体験をすることで新しい価値を創造する理系人、ツールで出来る事はツールで、というアプローチによって広く浅く経験を積むことで新しい価値を創造する文系人。小学校の数学のテストで『電卓使っちゃいけないの、なんでですか? (c)jkondo』なんて教師に食ってかかった時点で、文・理分岐点に到達してしまっているのかもしれない。
ちなみに私はというと、これら2者間にミゾ(キャズム!?)*2があるなぁと感じたので、理系臭のする文系人として2者間に立って糊の役目を果たすことを生業とすることにした。なかなかこれは、楽しい仕事である。
追記 > コメントでご指摘をいただいた。適正→適性 に誤字修正